2017年06月20日

J.J.ルソー『社会契約論』 要約(3) 求められる政府形態

要約(3) 求められる政府形態

 政府とは何だろうか。
 主権者が立法権を持っているならば、政府は行政権を持っている。
 一つの国を人間に例えるならば、立法権とは精神であり、行政権とは行動であるとも表せる。
 
 私たち主権者の意見を採り入れ、実際に行動に起こすのが政府であり、主権者は政府にはなり得ない。
 何故ならば、主権者である私たちは、法によって行為を規定されているが、行政は法で規定することのできない特殊行為であるため、これを主権者は取り扱うことができないからだ。
 
 では、誰が政府を実行させるか。それが統治者(プランス)である。
 統治者は行政権を全て担っているために、一般意志からかけ離れたようにも動かすことが可能だが、それは社会契約によって叶わない。

 主権者は法律を変更する権利を持ち、また必要であれば国を脱出することが可能であり、市民のいない政府などは無用の長物、いや存在しない。
 あくまで市民の精神あってこその行動であり、統治者は市民の一般意志に沿った統治を行う。
 
 さて、政府の統治形態は、統治者の人数において大きく異なる。よって3つの大きな統治形態に分け、後に説明を加えていく。
 まず分類は、統治者が多いものから、「民主政」(主権者の半数以上)、「貴族政」(主権者の半数以下)、「君主政」(一人)である。
 
 統治者が多ければ多いほど、政府の意志=一般意志となるが、同時に人数が多ければ、意思の疎通のとりづらさ、政府の緩慢を招く。
 さらには、その土地の風土、国民の気質などによっても、どの統治方法がよいかは変化してしまうため、一概に最良の統治方法などは存在し得ない。
 
 けれども、良い政府の特徴は存在する。
 国が生まれた目的とは、構成員の保護、また繁栄なのだ。よって、人口増加こそが、良い政府を表す一つの物差しである。
 
 私たちは、統治方法を好き好きに選ぶのではなく、各統治形態の一長一短を理解し、国が如何に繁栄できるかといった視点をもってして見比べるべきだ。
 以下に、各統治形態への説明を加えていく。

「民主政」

 立法者と政府が同じであった場合、法律の解釈を一番正しく読みとることができるのが立法者であり、それがそのまま行政権を持つとなれば十分な政治制度と思われる。
 
 しかしながら、立法者が腐敗した場合は最悪の事態を免れない。
 貴族政や君主政であれば、民衆が腐敗しようと、国を運営することが可能である。また、貴族政や君主政が法を濫用しようとも、立法者が法手を加えることで収集がつく。
 
 だが、民主政では立法者と政府が同時に腐敗してしまうため、立法による改革が不可能となり、もはや国すら崩れてしまう。

 また、民主政は、ある一定の人口を超えての行政は不可能だ。
 政務の効率化を図るために仕事を統一化することは、権限を一点に集めることになり、民主制の根本から大きく外れてしまう。

 さらに、民衆の意見を勝ちとろうと、内乱や内紛が絶えないであろう。
 この制度においては、市民は学をつけ、「平和な奴隷よりも危険な自由を望む」と公言できるようにならなくてはいけない。
 
 ただ、民主制の利点は、行政官の選出に選挙が必要ないことだ。
 ただ一つ抽選が行われれば、それでよい。主権者が行わなければならないことを代表して行う、行政官を選出するのである。
 これは元来、利なくして時間を奪われることであり、皆平等に生きようと考えれば、抽選こそ民主制に叶う。
 
「貴族政」

 貴族政は、大きく3つに分類される。
 自然的な祭司や長老などの年長者が統治する場合、選挙によって統治者を選ぶ場合、世襲制度を採用し統治者の権限を自由に受け継ぐ場合、である。
 
 一つ目は最も素朴な国でしか成り立たず、三つ目に至っては社会契約を破棄している。ルソーは、2つ目のあり方が、貴族制の本来持つべき意味であると考える。
 
 貴族政での利点は、集会が容易であり、迅速に行動に移すことが可能であることだ。
 同様に、立法権と行政権を分離させられること、最も優れた人々で統治を行えることも利点である。
 しかし、貴族政において気をつけなくてはならない点は、一般意志が混在することと、選挙において富や権力のみではなく、その人の知性で判断しなくてはならないことである。


「君主政」

 統治者の人数においても、民主政と君主政では両極端にあるが、その制度の一長一短においても、やはり両極端にあると思われる。
 
 民主政においての集会の不便さや意志の統一の難しさというのは、君主政において皆無であり、ただ一人の特殊意志がさも一般意志であるかのように振る舞い、支配する制度である。
 
 よって一人の統治者を選択する上で、その人物が天賦の才を持っていない限り、不当な統治が行われることは不可避であろう。
 
 また、天賦の才という点が、様々な問題を引き起こす。
 人間には寿命があるが、国家の寿命はそれを遙かに上回る。才能を持った統治者から、統治者を変更せねばならないとき、才能のない者が統治するといった、危険な隙を残すこととなる。
 
 また、今まで一人の人物によって統治計画が立てられていたものが、別の人物に変わることによって、変更を余儀なくされる。
 たとえ才能を持った者が二代続こうと、統治者が変わるたびに国家が転覆することには変わりがない。
 
(ヨハネ研究の森 第11期生 内田)

 
posted by ヨハネ研究の森 at 10:45 | 社会学

J.J.ルソー『社会契約論』 要約(2) 法の定義、立法とは

要約(2) 法の定義、立法とは

 前の項目で述べた「社会契約」を、国という単位で考えれば、契約を交わした人々は皆、主権者となる。
 主権者とは、国に対しての最高権限を持つ者という意味であり、それは社会契約の元譲渡や分割、主権の上下関係を認めない。

 これは、あくまで全体への利益が目的であるからで、譲渡などを行えばそれが全体意志や一般意志ではなくなるため、契約放棄にあたるのだ。
 全体の目的を制定するものが国民であり、それに従うのも国民なのだから、当然の帰結であろう。

 さて、主権者の集合体、一般意志の固まりである政治体に話を振る。
 政治体は、主権者が持っていない主権者自身の命や存在の権限を持っている。つまり、国民の存在や命をも奪うことが可能なのだ。
 
 主権者は、安全な生活を求めることから始まり、社会契約を結んだ。契約は実行され、主権者は今日この日まで安全に過ごせた。
 もし、主権者の意志によって人の命を侵すことで、国の安全を保てるならば、その人を殺さなくてはならない。同時に、その人は自ら命を差し出さなくてはならない。

 主権者の命と存在は、初めの社会契約によって、政治体(国民全体)に譲渡したことと同じなのだ。
 以上のことから、政治体は主権者の生命、存在を所有していると考える。
 これに加えて、運動、意志を政治体に与えなくてはならない。
 
 先ほどの例と同様、主権者の命、存在を規定するのは政治体であり主権者なのである。
 主権者の命の結びつきを、無法の元に置いておくのか、秩序だった元に置くのかは選択できる。しかし、人間がただ集合しただけの集まりは、豚の群れに過ぎない。社会契約の結びつきは即緩み、一般意志は存在する前に四散するだろう。
 
 社会的結びつきを堅固なものにするならば、秩序だった行動が必要である。それらをまとめ、義務づける法を制定、立法しなくてはならない。
 では、誰が(立法者)、誰に対して(臣民)、どのような法を制定するべきなのだろうか。
 
 まずは、立法者から考えよう。法を制定するのは、神だろうか、王だろうか、それとも賢者だろうか。
 全て違う。法に従う人民であり、臣民なのだ。
 
 国の内外にいる神や一部の人間が法を制定したところで、それは国民の一般意志ではない。一種の命令であり、社会契約に違反し、破棄しても構わないのである。
 
 だからこそ、立法という一大行事には、大変な労力がかかる。
 立てる法は臣民の風習、慣習に習ったもので、且つ人間の英知を集大成したもの、さらには提案する人が誠実聡明な偉人でなくてはならない。
 
 最後に、これらは勝手に公布するのではなく、上の通り、臣民全員が了承しなくてはならないのである。
 
 過去に多くの法は立てられたが、残っている法は数少ない。
 イスラエルの法、ユダヤの法は、上記のことが守られた英知の結晶であったからこそ残り、消えていった数多くの法は一般意志に背くものであった。
 
 さて、国における法の項目は、いくつかに分類することが可能である。
 しかし、今回は政府の形態に関わる「政治体と主権者」の法のみを問題とし、如何なる立法が必要か、次の項目で述べよう。
 
 秩序を保つために如何なる法を制定し、また、従うかということは、政治体と主権者を縛る法そのものを考えることに他ならない。
 主権者同士の秩序を守る法は、形而上の徳、正義からでも考えうる。一方、政治体に対してのそれは、主権者の持つ権限から考えるだけでは手に余る問題であるといえる。

(ヨハネ研究の森 第11期生 内田)

posted by ヨハネ研究の森 at 10:30 | 社会学

J.J.ルソー『社会契約論』 要約(1) 社会契約論

要約(1) 社会契約論

 人間とは、自然状態において自由である。つまり、人間の最小単位である個人や家族単位のみで、人の通わない森の奥などで暮らしていく場合、全てが自由であり、たとえ裸であろうとも罰する人はいない。
 
 しかし、この状態では、危険に対しても個人や家族単位でしか対処できない。だからこそ現代の私たちは集まり、結束を固めて危険に対処していく。

 この、集まることを了承することが政治の根本であり、これ以上のものもこれ以下のものも存在しない。ルソーは、この行為を「社会契約」と名付けた。
 
 社会契約を結ぶということは、人間が自由でいられる根本であり、それらを守る為に、自然状態において自由であった各個人は、欲望の衝動を抑えなくてはならない。

 個人の欲望を優先することは、社会契約を破棄することに他ならず、全体の利益、一般意志を尊重し続けることが、社会契約を結び続けることである。

 同時に、ここに奴隷が存在するならば、彼らには奴隷状態から脱出する権利が与えられる。
 奴隷は決して欲望から生まれてきたものではない。忘れてはならないのは、人間が集まることで、全員が危険から逃れられることを望み契約を交わしたことだ。
 奴隷からの脱出は、欲望の衝動ではなく、元々主人が義務を放棄した契約違反にもとづく権利なのである。

 さて、以上のような「社会契約」を原則とした社会、国家とはどのようなものか描いてみよう。

(ヨハネ研究の森 第11期生 内田)

posted by ヨハネ研究の森 at 10:15 | 社会学