2017年04月27日

ショウペンハウエル『読書について 他二篇』 要約(1)「思索」

要約(1) 「思索」

 書物とは何だろうか。一般に書物とは、様々な知識、智恵の源泉であり、真理への道程であるとされる。そのため、多読家と呼ばれる人々は、無知な一般人の尊敬の対象にされる。

 しかし、書物とは、他者が各々の思索の結果を記した痕跡にすぎない。それは、他者が思索したことの一部を文字に起こした欠片である。つまり、書物の内容とは、自らにとっての意義を内包したものではなく、いわば「他人の食べ残し」でしかないともいえるのである。

 ゆえに、如何に多くの書物を読み、書物から如何に多くの知識を得ても、その価値が保証されるものではない。なぜなら、全てにおいて「自ら思索する」ということが前提でなければならないからである。

 書物を多読し、そこから得られた知識に満足する人々は、自ら思索することを放棄していることと何ら変わりない。それぞれ異なった精神、体系から生み出される他者の思索を無尽蔵に受け入れることは、自らの体系の構築を放棄する耽溺知にほかならないのである。

 本来、尊敬に値する思想家とは、このような多読家、書籍哲学者とは対極に位置するはずの人物だ。思想家とされる人々は、書物を主要な前提としてではなく、思想の材料として用いる。読書とは、思索に必要不可欠なものなのではなく、思索に行き詰まった時の代用品となるにすぎない。その代用品としての読書も、前述のようにそもそもが他者の精神、体系を基板としているものであるために、それ単体が意味を生む訳ではない。

 では、本来の思索のあるべき形とは如何なるものなのだろうか。思索とは、多読家や書籍哲学者の行っているような書物を前提とした小手先のものではなく、他者に依存せず自らによって直接生み出されるものである。自らの思索そのものを目的とし、それに邁進する者のみが真の思想家なのである。

(ヨハネ研究の森 第13期生 日高)

 
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ショウペンハウエル『読書について 他二篇』 解説

解説

 本書『読書について 他二篇』は、ドイツの哲学者ショウペンハウエルが1817年に著した『意志と表象としての世界』の付録、補遺である『パレルガ・ウント・パラリーポメナ』に所収されていた三篇を翻訳したものである。それぞれ、本書では「思索」「著作と文体」「読書について」と称され、読書というものがいかなるものなのか、どのような意味を持つ行為なのかということを明らかにする。

 だが、ショウペンハウエルは、本書『読書について 他二篇』のなかで、読書というものがもたらす弊害を徹底的に論じている。そして、鋭い皮肉を交えながら、読書がどのような罪を内在したものであるか、読書家として尊敬の対象にされる人々が、本質においてどのような価値をもっているのか批評する。

 つまり、彼は、本や読書などといったものがもたらす罪を、書物に著し、それを読ませることによって伝えようとしているのである。自分は読了前、このことに根本的矛盾がないのだろうかという疑問を抱いていた。

 しかし、ショウペンハウエルは本書において、粗製濫造される書物や多読家とされる人物を痛烈に批判した後、どのような書物を読むべきか、言葉を如何に扱うべきかということに触れ、やはり当時のドイツ文壇を批判する。その一語一語は、読書や多読を強烈に批判するものであり、我々には耳の痛いところも多い。

 ともすれば、著者の主張を鵜呑みにしかねない我々は、「読書とは、自ら思索することを放棄し、他者に思索をゆだねる行為である」とするショウペンハウエルの批判を、真っ向から受けざるを得ない立場にあるのかもしれない。我々は、どのように「読書」というものを受けとめるべきなのだろうか。そのことに対する検討が、何らかの形で必要なことは間違いない。

(ヨハネ研究の森 第13期生 日高)
 
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