2017年05月12日

アマルティア・セン『アイデンティティに先行する理性』 解説

解説

 本書では、経済学理論の社会的アイデンティティ軽視に対する批判がなされる一方で、過度な社会的アイデンティティ重視は危険であることが述べられている。
 そして、著者は、社会的アイデンティティが重要であることを認めつつも、個人の理性的な姿勢やものの見方がいかに大切であるかを訴える。

 本書の内容は、共同体における多文化共生、とりわけ「個」が共同体の規範に適応していく過程での、共存の在り方の再評価にもつながるものではないだろうか。
 
 また、私には、次のような疑問があった。
 私たちは、共同体に所属している。もし、その場所での行動規範を意識し、それを担っていく側として「私」が生活を営む立場にあるとき、その行動規範から外れた他者や生活一般に対して、私たちは如何にして正義を貫くか。

 一方で、その行動規範を意識した上で、悪いとされることを自覚しながらも行おうとする「この私」もいる。そのなかで、私たちは共同体の行動規範をどこまで他者に適用してよいのか、といった疑問は絶えない。
 共同体の行動様式を担う「私」は、どこまで私たちを導いてくれるのか。もっといえば、「私」に依拠する「この私」は、日々の営みのなかで、どこまで正しいのだろうか。
 
 私は、本書を読み進めるにつれて、その内容が私たち自身の問題であると同時に、解決されずにいたこの疑問への、明瞭な答えであることに気づいた。

 「私とは何か」といった自己の内面性や価値観を考える際、少なくとも「個人としてのアイデンティティ」と「社会的アイデンティティ」という2つの側面を同時に考慮しなければ答えを出すことはできないという認識を、私は重視したい。

(ヨハネ研究の森 第9期生 蓮生、一部改変)

posted by ヨハネ研究の森 at 12:00 | 哲学

2017年04月28日

ショウペンハウエル『読書について 他二篇』 要約(3)「読書について」

要約(3) 「読書について」

 読書とは、「他人にものを考えてもらうこと」である。本を読む過程において、人々は自ら考えるということを怠り、他人の思考を反復するだけに留まる。他者の思考を鵜呑みにし、己の思考の柔軟性を自ら殺している。すなわち多読家や学者とは、自らの思索を失った「精神的廃疾者」なのである。
 
 では、我々はどのように読書と相対するべきなのだろう。読書に際しての心がけとは、「読まずにすます」ことである。金儲けのために書かれた大衆向けの書物は、一時の流行でしかない。無意味な悪書に時間と金を費やすほど、無駄なことはないのである。
 
 我々が読むべきは、このような低俗な書物などではない。あらゆる時代、民族の天才が生んだ作品、いわゆる「古典」を読むべきである。愚かな一般大衆は、低俗な流行小説は嬉々として買い漁るのに対し、有意義な古典に対しては、知識として書名を知るだけで満足する。だが、本来書物が持つはずの知は、この「古典」にしか存在しない。練達した思索家は、このような「古典」のみに触れるべきなのである。
 
 だが同時に、こういった「古典」にあたる際、大衆が低俗な書物にあたるような姿勢で読書してはならない。偉大な書物を消費するのではなく、反復、反芻し熟慮しなければならない。その過程を通すことで、自己の精神に過去の賢者の精神を付着させることができるのである。

(ヨハネ研究の森 第13期生 日高)

 
posted by ヨハネ研究の森 at 09:00 | 哲学

ショウペンハウエル『読書について 他二篇』 要約(2)「著作と文体」

要約(2) 「著作と文体」

 著作家というものは二つの種類に分けることができる。純粋に内容そのもののために書く者と、本を書くために書く者である。
 昨今のドイツを含むヨーロッパ文壇の退廃は、後者の著作家が金銭目当てに低質な書物を粗製濫造したことが主因だと考えられる。彼らは、自らの思索を著作に投影するのではなく、著作を生み出すために思索を画策する。だが本来、著作とは著者の思索の複製でなければならないのである。
 
 そのような、思索の複製としての著作は、素材と形式が明確に区別されている。素材とは、著者の思索の対象となる一次情報である。これに対し形式とは、素材に対し著者が行った思索の結果のことである。優れた著作は、平易な素材に対し深遠な思索が与えられている。
 
 しかし、低質な書物を粗製濫造する著者と読者の無知により、著者の深淵な思索より材料としての素材の希少性に世間一般の衆目が集まりうることも事実である。優れた思索ではなく、表面的な知識量で読者を圧倒するだけの著作が数多く出版されていることは危惧しなければならない。
 
 これらの非良心的な「三文文筆家」が世間に溢れているなか、そのような風潮に対抗し、我々は「批評」というものを重要視する必要がある。権威ある評論雑誌、批評家が、金銭のために書かれる新刊という名の悪書を、徹底的に批判しなければならない。だが、現在の批評界は出版社に遠慮し、新刊に対し賛美しか述べない機械に成り下がっている。客観的かつ正直な批評界の構築が急務であるといえるだろう。
 
 そのためには、現代の文壇による欺瞞の原因となっている「匿名」という制度を廃止しなければならない。匿名性による出版言論の自由の濫用によって、嘘八百を並べ立てても何らの責任を負わない批評界が生み出されてしまった。匿名による執筆は、読者に対する欺瞞行為として強い糾弾に値するものなのだ。
 
 このように、現代の文壇は腐敗の極みにある。他にも、強い批判に晒されるべきは「文体の改変」である。
 文体とは、著作の顔であり個性である。優れた思索者は、それぞれ独自の文体によって自らの思索を表現する。だからこそ、凡庸な著者は自らの文体を放棄し、他者の文体を模倣し、難解な言い回しや新造語を多用し体裁を整える。
 
 その文体軽視の成れの果てが、近年のドイツ語に顕著に見られる文法の簡略化である。未完了過去、完了、過去完了の違いといった文法の持つ複雑性を、特段の理由なく放棄するなどといった愚行が、当たり前のように行われている。

 僅か1シラブルの削減のために、本来存在したはずの意味を失い、伝統ある言葉が破壊されている。hinsichlich(…に関して)と書くべきところを、hinsichtsと書くことに、文字数削減以外の何の意味もないにもかかわらず、権威ある大新聞さえ、このような改変を行って恥じることを知らない。
 このような国語破壊行為に対する徹底的な糾弾と抵抗は、良識ある文筆家の義務ともいえることなのである。

(ヨハネ研究の森 第13期生 日高)

 
posted by ヨハネ研究の森 at 08:00 | 哲学