2017年05月12日

アマルティア・セン『アイデンティティに先行する理性』 要約(3) 共同体主義の再考

要約(3) 共同体主義の再考

 さて、こうしたリベラリズム批判における共同体主義には、一つの再考の余地があるだろう。
 それは、社会的アイデンティティにおける理性的な熟考や、自主的な選択の余地を認めないことである。
 
 そもそも社会的アイデンティティは、描写的役割と認知的機能を担っていることに留意しなければならない。

 描写的役割とは、固有の価値観を有する集団において、その固有の価値観に即した人々が帰属する動きである。例えば、カトリック信徒とプロテスタント信徒では、同じキリスト教徒でもかなり差異がある。

 しかし、こうした社会的アイデンティテイにおいて、最も自分が一体化できる事柄を求めて、人間は自分の帰属する複数のアイデンティティ同士の間で葛藤することもある。
 したがって、共同体主義のいう先行的な価値観形成とは異なり、人間は自分でアイデンティティについて考えたり選んだりする必要性がないわけではない。
 
 現在、世界の至る所で起こっている民族や宗教の違いによる対立・紛争の背景には、共同体主義のような、アイデンティティを選択するものではなく先行的に発見するものとした考え方がある。
 それゆえ、仮にもう少し多くの人が、アイデンティティには複数の可能性があり、自分が最も大切だと判断するアイデンティティに自分を委ねるという精神性があれば、アイデンティティをめぐる暴力や野蛮な行為は回避できるだろう。
 
 また、認知機能とは、個々の人間の世界観や価値観に与える、文化の影響である。
 私たちの普段のものの見方には、帰属している文化や慣習という社会的アイデンティティが反映されているだろう。けれども、全ての合理的思考が特殊な共同体の価値観によって完全に規定されているわけではない。
 
 以上を踏まえると、共同体主義の主張には、いささか再考の余地が見受けられる。
 私たちは、グローバルな時代を迎え、互いに社会的アイデンティティを共有しない者同士で様々なやりとりを行わなければならない状態にいる。したがって、こうした状況において、如何に関係構築や共存を可能とするかを問わなければならない。

(ヨハネ研究の森 第9期生 蓮生)

 
posted by ヨハネ研究の森 at 13:30 | 哲学

アマルティア・セン『アイデンティティに先行する理性』 要約(2) 過度な共同体主義

要約(2) 過度な共同体主義

 一方では、共同体主義が、社会的アイデンティティを重要視しているだろう。けれども、共同体主義においても、同様な二つの問題がみられる。

 一つは、全ての価値観や合理性は各文化共同体に対して相対的であるとする、文化相対主義者である。
 もう一つは、マイケル・サンデルに代表される個人の自立や自己決定を何よりも重視するリベラリズムに対して、共同体固有の価値観や道徳意識を大切にしなければ自立的で自由な個人も育たないとして、個人主義的なリベラリズムを批判する立場である。

 前者は、世界をそれぞれ自己完結的な自閉的世界にさせ、文化的な対話や相互交流の可能性を一切断念させてしまう。
 
 そして、後者は、共同体主義が主張する共同体価値(好意、忠義心、連帯性)が成り立たない場面に注意を促す。
 しかし、共通の利益によって結ばれておらず、互いに競合している経済・社会的集団同士の場合、こうした状況において互いの対立を認めた上で、なお相互になんらかの共通の合意や規範を模索する必要がある。
 したがって、共同体内部での強い結束力や相互関係にのみ目を向けて、最初から共同体的連帯意識を欠いた、異なる文化や共同体間の関係には比較的無関心であるような立場では、こうした状況の改善は望めないだろう。

 ときに、ここでいう共同体主義は、共同体の空洞化による弊害を背景として生まれた。
 共同体主義は、リベラルな個人主義が主流である北米地域において、リベラリズムが共同体関係を崩壊させた、と認識している。そして、共同体の崩壊が、現代を蝕む社会病理の真因であるという判断を下した。
 
 共同体の崩壊は、個人の社会的アイデンティティを衰弱させ、安定した価値観や倫理観の基盤を解体する。その結果、招くのが空虚化した個人の内面である。
 こうした問題を解決する試みとして、社会的アイデンティティの復権を目指す立場が、共同体主義である。

(ヨハネ研究の森 第9期生 蓮生)

 
posted by ヨハネ研究の森 at 13:00 | 哲学

アマルティア・セン『アイデンティティに先行する理性』 要約(1) 過度な個人主義

要約(1) 過度な個人主義

 現在、多くの伝統的な経済学理論によれば、人間は、少なくとも経済活動においては、自己利益の追求以外に行動の動機を持っていない。しがたって、経済学は、社会的アイデンティティが果たす役割を極めて低く扱う学問であった。
 
 社会的アイデンティティとは、ある特定の集団への帰属意識といった社会的共同体(家族、地域、民族、国家など)の一員であることから生まれる、共同性の意識のことである。

 人は誰しも社会に生きているかぎり、慣れ親しんだ文化や習慣が、その思考構造や感受性の様式に強い影響を与え、私たちが生きていくために必要な美意識や価値観、倫理観を形成していく基盤となる。
 いわば、人は、社会から切り離された個人ではなく、なんらかの社会的集団・共同体との関わりの中で自己を形成し、価値観や行動様式を身につけながら生きている、とした概念である。

 ただし、私たちは常にこうした社会的アイデンティティだけを拠り所としているわけではないことを先に明記しておく。私たちは、社会に影響されながらも「個としてのアイデンティティ」を有しているからだ。

 私たちは、自分が生まれ育った社会の価値観や慣習に対して疑いを抱き、その意義を問い直したりすることもあれば、一切の社会関係や共同体から自分を断ち切りたい衝動に駆られることもある。
 したがって、私たちは、社会的アイデンティティに影響されながらも、結局のところ個としてのアイデンティティによって自己を形成する側面も大きい。
 
 だが、経済学では、上記の事実をモデルに当てはめない。それゆえ、自己利益以外にも責任に信頼、社会規範の遵守といった倫理的な価値観が、経済活動において重要な行動要因を担っていることを強調しなければならない。

(ヨハネ研究の森 第9期生 蓮生)

posted by ヨハネ研究の森 at 12:30 | 哲学