前の項目で述べた「社会契約」を、国という単位で考えれば、契約を交わした人々は皆、主権者となる。
主権者とは、国に対しての最高権限を持つ者という意味であり、それは社会契約の元譲渡や分割、主権の上下関係を認めない。
これは、あくまで全体への利益が目的であるからで、譲渡などを行えばそれが全体意志や一般意志ではなくなるため、契約放棄にあたるのだ。
全体の目的を制定するものが国民であり、それに従うのも国民なのだから、当然の帰結であろう。
さて、主権者の集合体、一般意志の固まりである政治体に話を振る。
政治体は、主権者が持っていない主権者自身の命や存在の権限を持っている。つまり、国民の存在や命をも奪うことが可能なのだ。
主権者は、安全な生活を求めることから始まり、社会契約を結んだ。契約は実行され、主権者は今日この日まで安全に過ごせた。
もし、主権者の意志によって人の命を侵すことで、国の安全を保てるならば、その人を殺さなくてはならない。同時に、その人は自ら命を差し出さなくてはならない。
主権者の命と存在は、初めの社会契約によって、政治体(国民全体)に譲渡したことと同じなのだ。
以上のことから、政治体は主権者の生命、存在を所有していると考える。
これに加えて、運動、意志を政治体に与えなくてはならない。
先ほどの例と同様、主権者の命、存在を規定するのは政治体であり主権者なのである。
主権者の命の結びつきを、無法の元に置いておくのか、秩序だった元に置くのかは選択できる。しかし、人間がただ集合しただけの集まりは、豚の群れに過ぎない。社会契約の結びつきは即緩み、一般意志は存在する前に四散するだろう。
社会的結びつきを堅固なものにするならば、秩序だった行動が必要である。それらをまとめ、義務づける法を制定、立法しなくてはならない。
では、誰が(立法者)、誰に対して(臣民)、どのような法を制定するべきなのだろうか。
まずは、立法者から考えよう。法を制定するのは、神だろうか、王だろうか、それとも賢者だろうか。
全て違う。法に従う人民であり、臣民なのだ。
国の内外にいる神や一部の人間が法を制定したところで、それは国民の一般意志ではない。一種の命令であり、社会契約に違反し、破棄しても構わないのである。
だからこそ、立法という一大行事には、大変な労力がかかる。
立てる法は臣民の風習、慣習に習ったもので、且つ人間の英知を集大成したもの、さらには提案する人が誠実聡明な偉人でなくてはならない。
最後に、これらは勝手に公布するのではなく、上の通り、臣民全員が了承しなくてはならないのである。
過去に多くの法は立てられたが、残っている法は数少ない。
イスラエルの法、ユダヤの法は、上記のことが守られた英知の結晶であったからこそ残り、消えていった数多くの法は一般意志に背くものであった。
さて、国における法の項目は、いくつかに分類することが可能である。
しかし、今回は政府の形態に関わる「政治体と主権者」の法のみを問題とし、如何なる立法が必要か、次の項目で述べよう。
秩序を保つために如何なる法を制定し、また、従うかということは、政治体と主権者を縛る法そのものを考えることに他ならない。
主権者同士の秩序を守る法は、形而上の徳、正義からでも考えうる。一方、政治体に対してのそれは、主権者の持つ権限から考えるだけでは手に余る問題であるといえる。
(ヨハネ研究の森 第11期生 内田)