さて、こうしたリベラリズム批判における共同体主義には、一つの再考の余地があるだろう。
それは、社会的アイデンティティにおける理性的な熟考や、自主的な選択の余地を認めないことである。
そもそも社会的アイデンティティは、描写的役割と認知的機能を担っていることに留意しなければならない。
描写的役割とは、固有の価値観を有する集団において、その固有の価値観に即した人々が帰属する動きである。例えば、カトリック信徒とプロテスタント信徒では、同じキリスト教徒でもかなり差異がある。
しかし、こうした社会的アイデンティテイにおいて、最も自分が一体化できる事柄を求めて、人間は自分の帰属する複数のアイデンティティ同士の間で葛藤することもある。
したがって、共同体主義のいう先行的な価値観形成とは異なり、人間は自分でアイデンティティについて考えたり選んだりする必要性がないわけではない。
現在、世界の至る所で起こっている民族や宗教の違いによる対立・紛争の背景には、共同体主義のような、アイデンティティを選択するものではなく先行的に発見するものとした考え方がある。
それゆえ、仮にもう少し多くの人が、アイデンティティには複数の可能性があり、自分が最も大切だと判断するアイデンティティに自分を委ねるという精神性があれば、アイデンティティをめぐる暴力や野蛮な行為は回避できるだろう。
また、認知機能とは、個々の人間の世界観や価値観に与える、文化の影響である。
私たちの普段のものの見方には、帰属している文化や慣習という社会的アイデンティティが反映されているだろう。けれども、全ての合理的思考が特殊な共同体の価値観によって完全に規定されているわけではない。
以上を踏まえると、共同体主義の主張には、いささか再考の余地が見受けられる。
私たちは、グローバルな時代を迎え、互いに社会的アイデンティティを共有しない者同士で様々なやりとりを行わなければならない状態にいる。したがって、こうした状況において、如何に関係構築や共存を可能とするかを問わなければならない。
(ヨハネ研究の森 第9期生 蓮生)